考えるタネと物のミカタ

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「ラピュタ」の安定感を分析してみる

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 この写真は私が5年前にカンボジアのアンコールワット遺跡の東にあるベンメリアという寺院跡に行ったときのものだ。写真からもわかるけれども、実際の場所を目にした時、日本人のほとんどの人は、「ラピュタ」っぽい、と感じるだろう。

 

共通しているのは「人間」。他は異世界

 小学生の時、劇場でみた初めてのジブリ映画が「ラピュタ」だ。
 空から降ってくる少女、パズーとシータが追われるシーン、空を自由に飛び回る飛空艇、そして空に浮かぶ城等など、人間が織りなす物語であるにもかかわらず、その描写は私たちの生活と一致するところがほとんどない。比較する対象が私たちの世界にないのだから、見る側が手放しで作品世界に飛び込んで、どっぷり浸かって異世界を楽しむことができる。
作品世界と私たちが生活している世界に共通しているのは、人間だけだ。だからこそ、パズー、シータ、ドーラ、ムスカ等、様々な登場人物の心の動きが余計に浮かび上がってくる。

 

安定した気持ちで観れる「ラピュタ」

 宮崎作品には空をとぶシーンが多くある。空がテーマのもの沢山だ。空という人間にとって不安定な舞台に、どっしりとした人間像が描かれるから、登場するキャラクターたちにしがみついて観ているのかもしれない。

 「ナウシカ」も私の大好きな作品の1つで、いつ観てもその時によって感銘をうける箇所が違う壮大な物語である。だが、壮大すぎて実は物語の内容をしっかりと覚えることができていない。一方「ラピュタ」はいつ観ても、同じ箇所でドキドキし、同じところで広大な空の空間を味わえる物語だ。そういう意味でも、ラピュタは、どこか水戸黄門的な「待ってました!」 という安定した気持ちで見ることができるのかもしれない。

 もう一つの安定感を出している要素として、男の子と女の子の存在をあげてみる。「ラピュタ」では宮崎作品には珍しく男の子と女の子のキャラクターとのバランスがいい。それは、他作品の「ハク」と「千尋」、「アシタカ」と「サン」、「ハウル」と「ソフィー」達のバランスとは違う。「パズー」と「シータ」の性格、能力それぞれがバランスがとれていることが、安定感に繋がっているのではないか。

 

「空のいけにえ」である宮崎作品

 話は全く変わるが、宮崎先生の空に対する憧れ、というかこだわりはほとんどのジブリ作品で垣間見ることができる。宮崎先生が表紙絵を書いている、サン=テグジュペリの「人間の土地」。そのあとがきのタイトルがなんとも宮崎先生らしい。「空のいけにえ」だ。

 人間は飛行機で空を飛ぶ力を手に入れたけれども、まだ空を自由に、自分の意志のままに舞うことはできていない。人間の空への憧れはまだまだ続くのだ。