考えるタネと物のミカタ

たくさんの物の見方から、考えるタネが生まれて

哲学書として読みたい『教団X』

 中村文則さんの『教団X』について。

 私にとってのこの小説は、哲学的な視点つまり私たち人間がどこから来てどこへ向かうのか、私たちは何者かといった考えに対する一つの考え方をまとめてくれた小説という意味で、読んで非常によかったと思う作品である。

 

 多くの書評で性的表現が執拗である、ということも言えるけれども、それをマイナス点と捉えたとしても、この世界をどう捉えるかについて一つの道筋を得られたことは私にとってワクワクするほど意義深い。

 

 哲学、言うなれば私たちの住む世界をどう理解するかという問いとそれに対する仮の答えの応酬だと思っている。決して正解があるわけでもないし、考えたところ で私たち一般人にとってとりわけ有用でもないし発展性があるわけでもない。だけれども、私たちが生きる世界を理解しようとすることは、人間にとって自然な 行いだと思う。その結果、この世界を理解するために天文学や物理学、生物学が生まれていったのだろうし、一方で神や仏という存在を通じて世界を理解しよう とした行いに通じるのだと思う。

 

 さて、『教団X』で面白いのはどこか?それは、作中第1部にⅠ〜Ⅳに分かれて登場する「教祖の奇妙な話」という部分である。下記に幾つか引用してみる。

 

<われは考えて、有る>という<迷わせる不当な思惟>の根本をすべて静止せよ

意識「私」というものは、決して主体ではなく、脳の活動を反映する「鏡」のような存在である可能性があるのです。「私」達が「閃いた!」と感じた時、その0.何秒か前に、実は脳が「閃いて」いるのです。

いわば人間の身体の構成物は、大昔からの使い回しであると。

人間は一年もすれば身体を構成している原子がすっかり入れ替わっている

この世界において「個」というのは、少なくとも物質の概念で言えば存在しないのかもしれない。常に入れ替わっていくし、その人間が死ねば、その構成物はまた何かの構成物に「リサイクル」されるわけですから。

いわば我々は、遥か古代から現代まで、常に流れているものの一部なのです。

 私は、鈴木大拙著の『禅学入門』と、岡潔著の各書を通じて自我と自我が生まれるその前について捉えるようになった。この『教団X』を読んでより世界の捉え方のアプローチ方法を増やせたと思う。

教団X

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