考えるタネと物のミカタ

たくさんの物の見方から、考えるタネが生まれて

吾輩はサルである。もはやそれはサル以下ではないか。

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 吾輩はサルである。

 サルにとってサル山は生きていく社会である。社会の仕組みからの脱落は死に繋がる。以前に人間に飼われていた我々の仲間が都心に紛れ込んで、その後また人間に捉えられ動物園に収容されることがあった。彼女はその動物園という新しい社会に馴染めず、仲間とのケンカの傷が致命傷となって命を落とした。一般的には、サルとして生まれ落ちてからサル社会の中で育てられ、社会のルールを学び、また次のサルに引き継いでいく。サルらしいと言われている生き方だ。私たちのある仲間は人間と協力しながら芸事を生業としているが、そこの人間はサルの社会がよく分かったもので、サルを一匹ーここは人間にならって一猿(えん)としたい ーで生活させるのではなく、複数のサルで社会を形成できるようにしている。

 

 サルにとってはサルの社会が必要なのだ。人間という生き物は面倒は見てくれるし稼ぎ方も教えてくれるが結局のところ異種であるから、サルをサルらしく育てることはできない。遠戚のゴリラから、彼のお爺さんのお祖母さんが育てたターなんとかという人間の話を聞いたことがあるが、愛情をもって育ててどんなにコミュニケーションがとれても、異種であることが時には彼を傷つけてしまい、時には幸せを阻害してしまったのだという。その後運良く人間社会に馴染めたところは冒頭の人間に飼われていたサルとは違うところだとしても、サルにはサルの、人間には人間の社会が必要だということには相違ない。サルはサルによって育てられ磨かれるし、人間は人間によって育てられ磨かられるのだ。

 

 サルの社会、人間の社会、いずれもそれぞれが生きていくには必要なのであるのは既に述べたが、人間社会には仲間を社会から排除する、いわゆるイジメとよばれる習慣があるらしい。我々の社会では社会からの逸脱は死に繋がると書いた。人間のそれはつまり仲間の命を奪う行為に他ならないのではないか。我々には全く理解ができない。またこういう人間もいる。もっと人間らしく、といって社会から外れて自由に生きようとする人間。人間社会からはずれてしまったらもはや人間ではないではないか。社会から外そうとする人間、社会から外れようとする人間、もはやそれはサル以下ではないか。