争いが絶えない。規模の大小は関係ない。争いがあるということはそこには境目があって、境目の片方ともう片方があ争う。もう一つあれば三つ巴、4つ以上もあり得る。私たちが居るこの世界にはいくつの境があるだろう。出来る限り挙げてみて欲しい。「世界は◯◯でできている」の◯◯に当てはまる言葉を考えるとわかりやすい。
世界は◯◯でできている
国の集まり、文明の集まり、宗教の集まり、白人と有色人種、子どもと大人、人間とそれ以外、男と女、経営者と従業員等。大概その境が互いの衝突点となる。先の例はそれぞれ、戦争、文明の衝突、宗教戦争、人種差別、最近のこども達は、自然破壊、女性蔑視、といった争いの形で現れてくる。
私たちは争いの結果生まれたのか
争いはいらない。より良い発展のための争いは必要だ、という意見にも反対したい。必ず犠牲が存在するからだ。犠牲になっていいものなど無いはずだ。こんな話をすると、人間の誕生の話を持ち出す人がいる。皆、精子の頃から競っていると。数億分の1の争いを勝ち残って今生きていると。私はそうは思わない。皆、争ってなどいない。どれも秀でていないし、どれも劣っていない。卵子にたどり着いたものがガッツポーズをしていることもないし、そうでなかったものががっかりしていることもない。受精という一つの目的のために生み出されたものだからだ。数億分の1の精子が卵子にたどり着いたのなら、それは数億の精子全体の目的が達成されたのだ。
争いを無くす2つの方法
話を戻す。争いはいらない。争いを無くすには2つあると考える。一つは境を沢山用意する。見方を多く用意するということである。国と国という見方だけじゃなくて、人間と自然という視点をもつ。肌の色で争うのではなく、大人と子供という括りで世をみてみる。複数の視点をもつことができれば、争いの種は少なくなる。そしてもう一つは境を無くことである。言い換えれば「境」の根源ともいえる個という意識を無くすことである。「私」と「それ以外」と区別する意識、自我を無くすことである。
多くの犠牲を生み出す多くの争いがある今、私たちは世界を見る多くの視点を持ちながら、自我を滅する考え方をもつべきだと考えるのである。